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映画「アリーテ姫」(2001)

作品情報

監督:片渕須直

出演:桑島法子小山剛志高山みなみ沼田祐介こおろぎさとみ

制作国:日本

上映時間:105分

配給:オメガ・エンタテインメント

あらすじ

時は中世。アリーテ姫は結婚する時が来るまで無垢の身でいるため、城の小部屋に閉じこもる事を強いられていた。彼女は塔の窓から見下ろす城下町に生きる人々の姿を見ては生きる意味を考えていた。世界には千年も昔に飛び去った魔法使いたちの遺物が散在し、そのひとつを持ち帰り王に捧げることがアリーテ姫の婿となる条件であった。城で婚礼の相手を待つ日々を送るアリーテ姫だったが、とある魔法使いとの出会いをきっかけに彼女の運命は大きく変わっていく。

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片渕須直監督の劇場第一作目にしてこの時代にこそ見てほしい奇跡のオーパーツ

この世界の片隅に」という傑作を産み落としたが、僕の中では今でも「BLACK LAGOON」の人。

マイマイ新子と千年の魔法」ではありふれた山口県の景色なのにヤクザの事務所に乗り込むところだけ一瞬ロアナプラが浮き上がる迫真の演出に感動した僕は片渕作品が大好きだ。

そんな僕の一番大好きな片渕須直作品が長編劇場第一作目にして至高の作品「アリーテ姫」だ。

原作のヨーロッパ童話「アリーテ姫の冒険」はフェミニズム童話として名高い作品だが、この映画ではかなり監督の解釈が入り少女の成長譚として大幅に脚色されている。

 

周囲のお姫様像を押し付けられ、自らの意思の範囲外で結婚の話が進む軟禁生活を送るアリーテ姫

自らの存在意義を見出せないお姫様が白馬の王子様に頼らず、持ち前の知恵と行動力で困難を乗り越えていく。

映画は2001年公開、当時の売り文句は「構想8年、制作3年」原作はさらに昔。

公開当時は全く売れなかったようだが、この映画で描かれる姿はまさに現代のディズニープリンセス映画が求めるそのもの。

時代がようやくアリーテ姫に追いついたし、僕は「アナと雪の女王」は片渕須直から15年遅れてるという持論を崩さない。

 

この映画を初めて見た2019年を僕は今でも覚えている。

あの片渕監督の「アリーテ姫」をフィルム上映で見られるという貴重な機会があると知り、トークショー付きの日にチケットを取った。

当時は王子様のいらない自立したプリンセス像が当たり前になりつつある時代で、そういったキャラ付けが最先端の流行として世間の認識が固まりつつあったと記憶している。

そんな中でふと見た「アリーテ姫」が、2001年公開の映画が、さも当たり前のように描かれていること。

これが当時受け入れられずに対して売れずに終わったことに衝撃を隠せず、何より映画の圧倒的な完成度に震えながら劇場を後にしたのを覚えている。

世の映画が「意識のアップデート」と言わんばかりに提示しているものがとっくの昔に日本のアニメで行われていた。

答えがもうそこに既にあったということに対する脱力感を昨日のことのように覚えている。

 

抑圧的な男性からの解放、支配者から弱者への水の公営化というモチーフもハリウッド映画でよく見られる手法だ。

僕はこの時、奇跡的なことに片渕監督に直接感想を述べる機会を頂けたのだが、「マッドマックス怒りのデスロードは僕のパクリだよ!」という有難いお言葉を頂けたのが印象的すぎた。

確かに片渕さんがもう全部やってた。

「ランゴ」も水が解放の象徴だったので、ゴア・ヴァーヴィンスキーもパクリだと思います。(暴論)

 

 

この先ネタバレ含む感想なので映画を見るつもりの人はここまで!

 

 

一番の衝撃だったのは中世ヨーロッパの世界観が終盤でひっくり返されたことだ。

ここが一番の大きな原作改変だと思うのだが、この世界は「高度に発達した先史文明がカタストロフで滅んだ後に生まれた2周目の人類史」というところだろう。

この世界でいう魔法使いは「高度に発達したいわゆる『魔法』と見分けのつかない科学力で作られた先史文明の遺産と、それを使う第一文明人の生き残り」だということだ。

片渕監督が一体どんなブラフをかましたらこんな映画を作らせてもらえるのか全くわからず震え上がった。

 

原作では悪の存在で姫に倒される魔法使い「ボックス」がアリーテ姫の鏡像としての役割を与えられていることもこの映画の印象深い改変だ。

先史文明の生き残りであるボックスは子どもながら一人取り残され永遠の命で生きながらえてしまい、自らが使える装置が発動する現象を魔法として、中世レベルの人々を脅かし自分の世話をさせていた。

アリーテ姫との結婚を取り付けて自らの城に閉じ込める理由がアリーテ姫に自分が殺されるという予言があるから、というのは原作通り。

だが、原作では王位を乗っ取るためにあれこれ仕込みを始めるボックスだが、アニメでは何もしない。

アニメ版のボックスの行動は全て、宇宙へ飛び去った同族が自分を助けに来るのを待つ間の暇潰しに過ぎないのだ。

 

原作では幽閉された後も快活だったアリーテ姫が、アニメでは魔法でおとなしい女の子に変えられてしまい、助けを待って地下牢で延々と暇潰しの詩集に勤しむ。

見える世界や広さは違えど、ボックスもアリーテ姫も「永遠の退屈という牢獄の中で助けを待つ存在」に見えるよう改変が加えられているのだ。(これはもはや大胆な改変という言葉で済むのか)

その結果として、アリーテ姫を揶揄するグロベル(ボックスの従僕)のセリフがいちいちボックスにもブーメランする構図になっている脚本が見事すぎる。

 

洗脳の魔法が解けたアリーテ姫は原作通りボックスから「三つの試練」を与えられる。

原作ではそれを突破してアリーテ姫が勝利するのだが、アニメ版はそもそも難題にすら挑まないのだ。

何でお前のいう条件で戦って実力を示さにゃいかんのだt。

同じ土俵に立ってやることすら拒否する。

これは2019年の「キャプテン・マーベル」がジュード・ロウ演じる上官のヴィランにやって「今時のフェミニズムっぽい!」と一部で賞賛を浴びていたシーンそのもの。

はい、もう2001年にやってます。

 

原作に比べてフェミニズム色が薄れたと評判だが、むしろ今現在の世界が求めるフェミニズム描写のほとんどがこの映画にはあると僕は思った。

ただアリーテ姫を強い女性として描くだけでなく、悪役のボックスを同等の虚無を抱える存在に変えることで主人公と対比し、それを乗り越える二人の姿を描くというのはある意味昨今のそういったハリウッド映画よりよっぽど高尚なことを既に成し得ていたと言えるのではないだろうか。

いわゆるフェミニズム映画をやりながら、みんなが救われる優しい世界を作り上げる。

片渕さんだからできた偉業だ。

 

山の頂で千年も飛び続ける黄金の鷲(先史文明が作った用途不明の飛翔体)を見たアリーテ姫が、人類や自分の底知れぬ可能性を見出し旅に出るラスト。

もはや壮大すぎて「一体何を見せられたんだ・・・」と放心に近い状態。

 

ファンタジーに見せかけたガッチガチのSFアニメというオタクの大好物。

アリーテ姫」も「マイマイ」も「片隅」も、あの優しい空気感でこの内容をやっても破綻しない片渕監督のブレない圧巻の演出力。

ひとつの作品としても非常に強度の高い、まだ見てない人には掘り出し物に違いない大傑作なのであります。