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映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」(2023)

作品情報

原題:Women Talking

監督:サラ・ポーリー

出演:ルーニー・マーラクレア・フォイジェシー・バックリー/ベン・ウィショーフランシス・マクドーマンド

制作国:アメリ

上映時間:105分

配給:パルコ

年齢制限:G

あらすじ

自給自足で生活するキリスト教一派のとある村で、女たちがたびたびレイプされる事件が起きる。男たちはそれを「悪魔の仕業」「作り話」と否定し続けてきたが、やがて女たちはそれが実際に起きた犯罪であったことを知る。男たちが街へ出かけ不在にしている2日間、女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う。

 

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語り部がまとめる物語、最初と最後で逆転する言葉など小説原作映画らしさある構成

今年のアカデミー賞脚色賞作品。

村の男が家畜用鎮静剤で眠らせた女を強姦する因習がある村というエロゲー顔負けの事件、電子機器の一切ない生活、みなが質素な似た服しか着ない様など、まるで20世紀初頭頃の時代を思わせるが、これは2010年代のキリスト教一派のコミューンで本当に起きた割と最近の実話なのだ。

日本に住んでいるとそもそもこのコミューンという共同体での人里離れた生活様式に馴染みがないし、加えてこのコミューンがメノナイトというキリスト教の教派の集まりであること、娯楽性を完全に捨てた内容など、かなりとっつきにくい内容に仕上がっている。

 

原作は2005年〜2009年にボリビアで実際に起きた事件をもとに出版された小説だが、前述した通り一見して現代とは思えない映像だし、「薬で記憶はないがレイプされた痕跡がある」という女たちの話を「悪魔の仕業」とか言い訳するもんだから、一種の寓話として受け取ってしまった。

一応劇中でも2010年の出来事であると明示するシーンがあるが、あえて寓話化する事で観る時代を選ばない映画になるよう作為的に行った演出なのだろう。

 

アカデミー賞の脚色賞は、語り部が男性から女性になったことや、その寓話化した部分への評価なのだろうか。

原作小説は読んでいないが、ベン・ウィショー演じるオーガストが残した議事録を元にしたという設定なので語り手がオーガストになっている。

それが映像言語になったことで、読み書きのできない女性でも語り部になる事が出来るという気づきがあったのだろうか。

何にせよ「ウーマン・トーキング」というタイトルがさらに補強されるのでいい改変だとは思う。

それでなくてもこの内容なので、アカデミーもスルーする訳にはいかないだろうし.......まあそういう時代性もまた映画なので、賞を取るべくして取った映画なんだなという印象だ。

 

映画の内容としては、レイプ事件が明るみになった事で村の女性たちが「男たちを赦して今まで通り暮らす」「男たちと闘う」「黙ってこっそりみんなで出て行く」という三つの派閥に分かれて混沌を極めていた.....(ビルド脳)

スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンド、「MEN」のジェシー・バックリーといった過去にそういう男たちと闘う主人公を演じた二人が本作では「赦して何事もなかった事にする」派閥にいるというのも何の因果か。

 

村の女たちは投票で多数得票した「闘う」か「逃げる」かを選ぶために集まり論じる事になるが、女たちとて一枚岩ではない。

闘う派の中にもガッチガチの鷹派もいれば、静かに怒りを抱えつつもう少し穏便に行こうという人もいる。

十人ほどで集まって論じ合うのだが、その中に一人として全く同じ意見やスタンスを持つ人はいないし、なんなら被害者同士でお互いを責め合う辛い描写もある。

これは映画でありながら、現実と地続きで同じ様に物事を見据えている。

 

また、男の中にもまだ無害な子どもから微妙な時期の中坊、ダメな大人や一応愛されてる夫までさまざまな存在が示唆される。

本作では男側の語り手はほぼ0なので、様々な意見の人がいるという女側の描写に比べて、男側はどうにも救いようのない悪魔っぽさが拭えないのでフェアじゃない気もするのだがが、本作は「今まで言葉を与えられなかった女たちが話し合う事」がテーマなのでそこは飲み込むところなのかもしれない。

 

話し合いはレイプ事件を中心に信仰や「赦し」と「許可」の違いといった認識の話に至るまで多岐に派生していく。

そんな微妙にまとまりを欠いているようにも感じる様々な話をつらつらと喋り続け論じ続けるので、先述した通り娯楽性はかけらもない。

その議論も「男たちも因習が正しいと信じているんだからある意味被害者」とか「赦しを捨てるのは信仰に反するが、それでは男に許可を与えてるのと一緒」とか「きちんと正しい教育を施して男女が同じ目線で話し合いをしてこのコミューンを健全なものにするべき」とか、どうにもむず痒い。

 

同じ陣営にも武闘派や民主主義者がいて、それぞれが意見をぶつけ合う。
そしてそれが現実と地続きなら、まあ議論の内容もそうなるやろという感じなのだが、僕は映画を見るスタンスを間違えてしまったので退屈で仕方がなかった。

僕はこの映画からどんな新しい目線や意識を与えてもらえるのかと期待して見に行ったので、こんな当たり前の事が当たり前じゃない世の中があるとか、まだそんなステージで議論してるのかとか、それを明確な言葉にしたらアカデミー賞が取れるとか、この世界ってまだそんなレベルなのかとうんざりしてしまった、というのも正直な感想だ。

僕はアホだから観ている間は「いやもうそんなんただの犯罪の加害者と被害者じゃん。断罪して捨てて終わり。そんな奴らのこと忘れてみんなで楽しく生きようよ」みたいな事しか考えられなかったので、やはりこの映画の鑑賞スタンスをそもそも間違えて設定してしまっていたらしい。

 

もちろんここで行われたのは、この場だけでない未来の事とか色んな価値観が織り込まれた議論なのでそんな単純に片付く話ではない。

それこそ最初にこのままのスタイルで生きると宣言していなくなるフランシス・マクドーマンドですら、言葉では熱心な信仰心を表明しても、その裏にこれまでの人生が間違いだったと認めたくない複雑な感情も垣間見える表現をしていて、本当にあらゆる意見に行き届いた演出をしていたと思う。

 

この様に皆が自分の意見をしっかり表明できる健全な議論の場があるだけまだ一抹の希望がある世界だとサラ・ポーリー監督も言っていた。

逆に言えば、そのステージにすら立てない人はまだ世の中にたくさんいるのだろうけど。

 

美しくスマートな結論も結局最後までないし、カタルシスも娯楽性もない。

この映画は完全にリアルと地続きだし、映画の様な奇跡も魔法もなく、ある意味これは映画ではないのかもしれない。

ただ、冒頭でレイプ事件を隠蔽するために使われる「女の想像力で生み出された行為」という言葉の意味が最後には逆転する構造は実に映画的で熱いものがあった。

 

この90分のしゃべり場で様々な女性の言葉やスタンスのあり方を論じて、それを映画という形で明文化しアカデミー賞を取って多くの人の目に触れた事でまた一つ世の中が良くなったのであれば、この映画は与えられた役割を十分果たしていると言えるだろう。

 

こういう映画がアカデミー賞を取ると大体評価サイトで「つまらん。なんでアカデミー賞取ったのかわからん。駄作です」みたいなクソレビューが増えるのでそれだけは毎度頭が痛くなるが......

この文章を読んでいる数少ない人たちだけでも、そんなレビューや、もちろん僕の取り止めもない駄文なんかで観た気にならず、キチンと自分の目で映画を観て、自らの糧としてくれると嬉しいです。